花人列伝 工藤和彦

大正15年(1926)、小原流の工藤光洲・光園の次男として東京に生まれる。長男はいけばな評論家であり花道史家であり実作家でもあった工藤昌伸である。中国の華北高等工業で採鉱冶金の勉強をして大同炭鉱に実習に行き、終戦となる。戦後は常磐炭鉱で石炭販売会社を設立したりしていたが、昭和27年、第3回日本花道展に出品した作品が文部大臣賞を獲得。これを機に花道界に入る。

 翌28年の美術文化協会展に出品した作品「鉱夫の手」は社会主義リアリズムの結実として高い評価を受けた。新世代集団・集団オブジェに参加し、作家活動を活発に行う一方、流内においては各支部の研究会などの指導に当たり、指導カリキュラムを確立して小原豊雲家元の片腕となって活躍した。昭和41年、日本いけばな芸術協会の設立時には理事に就任、同44年にはオーストラリアのシドニーでいけばなインターナショナルの地区大会が開かれ、小原豊雲家元の助手として随行。

 昭和46年7月、ホテル・ニューオータニにおいて、個展「ミクロコスモス-木火土金水をテーマとして」を開催し、オープニングには時の首相・佐藤栄作、文化庁長官・今日出海、作家・川端康成、画家・東山魁夷などの著名人が多数出席。盛況ぶりもさることながら、その作品の芸術性の高さが高く評価された。以降、昭和56年、平成元年、平成6年、平成10年、平成20年と旺盛に個展を開催。平成8年、小原流研究院の院長に就任。平成10年に院長退任後も、名誉院長、顧問として五世宏貴家元の後見役を務める。平成12年(2000)に日本いけばな芸術協会理事長に就任、その後平成16年より相談役。平成28年に逝去、享年90。小原流は流葬を以て長年の功労に報いた。

 著書に『楙花』、『聯花』(アシェット婦人画報社、『聯花』は工藤亜美との共著)、『日本のいけばな 工藤和彦作品集』(小学館)、『いけばな花材ハンドブック』全六巻(八坂書房)、『思うままに生きて―工藤和彦回想録―』(せんだん書房)等。

復元を終えて

「如来肌」

いけばなは作品が残らない。消えてしまう。

それが魅力であり、虚しいところでもある。

工藤和彦は、作品を残すことを目ざしていたのかもしれない。

木彫の作品群は今もしっかりと存在している。。この作品も40年以上前のものである。

何不自由なく育てていただいたものの、父は妻子を扶養するためではなく、個展をするため、作品を創るために仕事をしていたのではないかと思う。

いけは”なは表現である。

作品を創ることが人生。

「自分の花」がなければだめだ。

私は、父の生みだしたものとして、如来肌を桶を越えられるのだろうか。

木の塊に対して嫉妬するくらい、父の魂が依っている。

工藤亜美

小原豊雲 小原夏樹 工藤光洲

工藤光園 平光波 五島泰雲 

工藤和彦 東海林寿男 佃季尾子 古作厚子

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