花人列伝 工藤光洲

明治32年(1899)、横浜市に生まれる。本名正雄。軒号百翠軒。横浜市不老町の生まれだが、少年時に日本郵船に奉職していた父の転勤に伴い、神戸に移住。兵庫県立一中に学び、園芸部に籍を置くが病気のため中退。花の道で身を立てることを決意し、神戸で真華池坊の生花と小原流の盛花瓶花を教授していた金子静風に入門。

 進歩は著しく、金子静風の推挙によって二世光雲家元の直弟子となり、このとき同じく家元直門であった守下雨江を知り親交を結ぶ。大正11年、家元直門としての修業を終え、横浜市戸部町に移り、23歳にして小原流盛花瓶花の教授を始める。

 翌12年3月、東京赤坂田町に転居するが、9月の関東大震災に遭遇、東京の状況を二世家元に報告のため汽車を乗り継いで下阪、護身のため家元から日本刀を譲り受け、佩刀(はいとう)して帰ったという逸話を持つ。大震災後、青山に移り社中「研美会」を創設、会長となる。また横浜にも横浜研美会を設立。花技のみならず日本画・洋画・陶芸・彫刻などいずれも余技の域を脱していた。園芸についても研究を積み、住居の東京市外玉川村(現・世田谷区用賀)に数百坪の花圃を持っていた。

 大正12年、同志を集め、東京国風会設立懇請の連判状を作って家元の許可を願い出、翌13年に全国初の支部組織「東京国風会」を結成、弱冠25歳にして幹事長に就任し、関東における小原流の拠点を確立した。

 昭和3年(1928)、研美会展を丸ビルの丸菱で開催。昭和4年5月、研美会に伍す大社中・一葉会の筆頭幹部である関光園と結婚し、小原流のみならず花道界の大きな話題となった。しかしその4か月後、妻・光園に後事を託し30歳の若さで夭折(ようせつ)した。

復元を終えて

タイムマシーンがあったならば会いたい人、工藤光洲。

父が3歳の時に亡くなった。会ったことのない祖父。

東京支部を設立させるために奔走している頃の光洲に会いたい。

光洲は.三世家元豊雲先生が小原流の表現として、文人調いけばなを提唱するずっと以前から文人趣味の興じた人でした。。

花と育て.花をいけるに留まらず、南画を描き、陶芸もしておりました。

光洲の遺品のほとんどを戦火で焼失してしまった我家に、門弟たちから戻ってきた掛軸や香炉とともに、大正13年の花会のアルバムがありました。

今回の復元作品を考えた時、二代光雲先生が観水型をつくるきっかけになったと聞かされている猿喉草の写景が1番だと思ったのですが、季節があわず、そのアルバムの中から勝手に「らしい」と感じてしまい、いけさせていただきました。

この機会に、資料をひもとき、祖父との時間を過すことができました。

工藤亜美

小原豊雲 小原夏樹 工藤光洲

工藤光園 平光波 五島泰雲 

工藤和彦 東海林寿男 佃季尾子 古作厚子

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